願望実現の話ではよく、「外側の現実をどうにかしようとするのではなく、自分の内面を変えることが先だ」と言われます。
現実に不足があるように見えるのは、自分の内面に不足があるからであり、まずはそこを変えなければならない。潜在意識を書き換えたり、自愛をしたり、充足を見るという話も、基本的にはこの延長線上にあります。
ただ、ここでもう一つ先まで考えてみると、そもそも自分の内面というもの自体、本当に自分のコントロール下にあるのか?という疑問が出てきます。
例えば、不安になろうと思って不安になるわけではないですし、何かをきっかけに昔の記憶が出てきたり、急に焦りが出てきたり、「またこんなことを考えている」と自分を責めることだってありますよね。
ただ、その思考自体を、
自分が意図して一つずつ作っているわけではないでしょう。
つまり、気づいた時には、もうそれが起きている。
そう考えると、外側の現実だけではなく、自分の思考や感情、もっと言えば「これを叶えたい」という願望そのものまで、本当はかなりの部分が自分のコントロール外で起きているのではないかと思います。
ここで、「じゃあ何をしても無駄なのか」という話になりやすいのですが、コントロールできないことと、何をしても無意味であることは同じではありません。
問題なのは、「自分が正しくコントロールしなければ、物事はうまくいかない」という前提の方です。
願望実現について調べ続けていると、この前提はかなり強くなっていきます。現実が変わらなければ、自分の何が悪いのかを探す。不足を見ているからなのか、自己否定があるからなのか、執着しているからなのかと原因を探し、その原因を取り除こうとする。
それでも変わらなければ、
さらに別の原因を探していく。そして次、次、次。。。と、
そして最後には、「願望を叶えるために何かをし続けること自体が、叶っていないという前提を強めている」と考え始める。
そこで今度は、何もしないようにする。ただ、「叶えるために何もしない」という時点で、結局まだ自分を操作しています。何かをしてもダメで、何もしなくてもダメになる。
この状態まで行くと、何のメソッドを使うかという話ではなくなってきます。ずっと残っているのは、「今の自分には何か問題があって、それを自分で修正しなければならない」という前提です。だから、不安が出れば消そうとするし、執着が出れば手放そうとする。叶っていない現実を見れば、見方を変えようとする。
けれど、その不安も、執着も、それを何とかしたいという気持ちも、最初から勝手に起きているものだとしたらどうでしょうか。自分の内面さえ完全にはコントロールできないと考えた時、初めて「自分を正しい状態に持っていく」という作業そのものから降りることができます。
願望実現では、執着を手放せとか、願望を忘れろと言われることがあります。
ただ、その前に疑った方がいいものがあるということで。自分が自分の内面を操作し、その結果として現実まで動かしている、という感覚です。
もしかすると最後まで残っているのは願望ではなく、「自分が何とかしなければならない」という感覚の方なのかもしれませんし、それはあるがままから離れ、水辺でぷかぷか浮いてるより、ジタバタして溺れかかる行為一歩手前に近いのかもしれません。






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