こんにちは。
実は9月4日〜今日まで韓国に行っておりました。

(韓国の夜景)))
その間、海外SIMでネット利用していたのですが、どうやらこちらのワードプレスだと、海外からのアクセスにセキュリティが引っかかってしまうようで、投稿が出来ずでした

(オーマイガーと思わず口走った)
投稿を待っていた方にご心配おかけしてしまい、申し訳ありません。
この記事に、3日分の思考メモを投下したいと思います。かなり長い文章にはなるかと思いますが、ぜひお読みください。
9月4日因果のメモについて。。
「原理原則」について
人は原則から離れるほど、弱くなる。原則に従うほど強くなる。
そして、
強くなりたいなら、
弱くなる努力をすること。
そんなお話です。原理原則とは何か?については、有料サービスにて詳しく説明していたりしますが、こちらでもいつか書きたいと思います。
- ・身体に染み付いている原則の差が、そのまま現実の差になる。
- ・行動だけ変えようとしても根本は変わらず、その行動を生み出している「価値観」を見なければならない。
- ・自分に都合よく世界を変えようとするより、自分を原理原則に合わせる。
(原理原則と自分の習慣には明確な違いがあります。) - ・強者は原則に自分を合わせ、弱者は原則の方を自分に合わせようとする。
(自然に還るイメージ。環境に争うのが弱者) - ・原則から外れ続けると、後から戻ろうとした時のコストが大きくなる。
(結局、同じ道に戻される、予定調和から外れるという意味) - ・現実そのものが面倒なのは異常ではない。「面倒でないはず」という前提の方が現実をさらに面倒にする。
(どんなことも面倒でイレギュラーなのが普通) - ・他人が避ける面倒・負荷・責任を引き受けられる量が、現実を動かせる量になる。
(自分にとっても面倒・負荷だと思えるか?はまた別。自分からしてみれば、何とも思わないことかもしれないし、それこそが才能と言える) - ・人生は思い通りにいかなくて普通であり、「気に入らないことだらけ=失敗した人生」ではない。
- ・自分で苦しみを再生産しているのに、その構造が自分には見えない状態が「業」
- ・簡単な原則ほど人は軽視し、わざわざ難しくして実行しなくなる。
- ・「やったことが返ってくる。返ってきたものは、どこかで自分がやったこと」という因果観が全体を通底している。
9月5日現代では説明しきれないトラウマの余白
「トラウマ」という言葉は、もともとギリシャ語で「傷」を意味するようです。
かつては身体にできた外傷を指していたようですが、19世紀後半になると、身体には目立った傷がないにもかかわらず、人が長期間苦しみ続ける現象を説明するために、「心の傷」という意味でも使われるようになったとか。。
現在では、
トラウマについてかなり多くのことが分かっています。
通常のストレスであれば、外圧によって一時的にへこんだバネのように、時間が経てば少しずつ元の状態へ戻っていく。しかし、あまりにも強烈な恐怖や苦痛を経験すると、その体験は単なる「過去の記憶」にならないことがあり、映像、音、匂い、感情、筋肉の緊張、心拍、呼吸、身体感覚までが、ひとまとまりの状態として保存されます。
そして何年後であっても、似た声、似た匂い、似た人間関係、似た場所に触れた瞬間、それが「思い出」としてではなく、「いま起きている出来事」のように再生される。
アンカーとトリガーの関係ですね。まさに、これがフラッシュバックです。
つまりトラウマというのは、
頭の中に嫌な記憶が残っているというだけの問題ではない。
頭では「もう終わった」と理解している。相手はもう目の前にいない。しかし、目の前で危機に晒されているかのように感じてしまう。
昔は、戦争のPTSDなどが主に扱われていました。
しかし、特に近年注目されている発達性トラウマや関係性トラウマでは、戦争や事故のような一度の巨大な事件だけではなく、幼少期から繰り返された無視、否定、虐待、ネグレクト、家庭内不和、いじめ、DVなども含まれます。
「人間とは危険なものだ」
「安心すると裏切られる」
「自分は歓迎されない」
という感覚が、
人格形成のさらに深いところにまで組み込まれてしまっている点まで、トラウマとして包括し研究されています。
私たちは現在、こうした現象をトラウマ、解離、自律神経系、ストレス反応、条件づけ、身体記憶などの言葉を使って説明している。しかし、人類がこうした現象に遭遇したのは、もちろん現代になってからではありません。
昔の人間も当然、突然人格が変わったようになる人、身体が震える人、声が変わる人、理由もなく恐怖に襲われる人、何かに取り憑かれたように暴れる人、ある場所に近づくだけで体調を崩す人を見ていた。
ただし、当時には「PTSD」も「解離」も「自律神経」という言葉もなぁった・
だから、それらは別の言葉で理解されていた瞬間があったでしょう。
日本なら「狐憑き」「物の怪」「祟り」「憑依」。
そして、それに対して祈祷、お祓い、鎮魂、加持祈祷、禊などが行われた。ここで面白いのは、そうした儀式を受けたあと、実際に症状が軽くなったと語られる人々も歴史的には存在したことです。
もちろん、だから「本当に狐が憑いていた」と科学的に結論づけることはハッキリ言えませんけれど、逆に、そこで起きていたことをすべて「昔の迷信でした」の一言で切り捨ててしまうのも、少し雑でしょう。
なぜなら、
お祓いという行為を神経系の側から見れば、
かなり特殊な出来事だからです
安全だと信頼している場所へ行き、
権威(確信)を持つ人物に「もう大丈夫だ」と宣言される。
鈴や太鼓、祝詞、炎、香り、呼吸、姿勢といった強い感覚刺激を浴びる。
家族や共同体も、その人が「治った」という物語を共有する。そして本人自身も、「自分を苦しめていたものが身体から出ていった」という明確な区切りを体験する。
これは単なる言葉による説得とはかなり違います。非言語の世界における何層もの情報が重なった結果のものと言えるでしょう。
現代的な言葉を使うなら、そこには安心感の形成、注意の転換、身体状態の変化、期待効果、条件づけの更新、社会的な承認など、複数の要素が重なっていたわけで。
つまり、「狐を追い払う」という説明は現代科学とは相容れなくても、その儀式の中で実際に人間の神経系へ何らかの変化が起こっていた可能性までは否定できません。
気功についても、私は同じような余白があるでしょう。気功では昔から、「気が滞る」「気が上がる」「気が漏れる」「腹に気を落とす」といった独特の言葉を使う。現代科学から見れば、「気」という物質やエネルギーがその説明どおり存在することが確立されているわけではない。しかし、その言葉が指し示している体験まで存在しないとは限らない。
そう考えると、伝統的な身体技法と現代神経科学は、まったく別の現象を扱っているとは限らない。
同じ人間を、違う時代の言語体系から観察しているだけかもしれない。
昔は「狐が憑いた」とか、ある時代には「ヒステリー」と呼んだりとか。
百年後には、それさえ全く別の言葉で説明されている可能性があります。
それは同時に、現代科学がまだ人間という存在を完全には記述できていないことも示している。もしかすると、昔の人々は理論を持っていなかっただけで、人間の神経系に作用する何かを経験則として掴んでいたのかもしれませんし、今のトラウマ治療以上の何かを提供していた人もいる可能性だってありますし、私自身、キッパリ科学では説明できないけれど、トラウマという存在に影響を与える何かはあるよねと感じている次第です。
9月7日 原則から離れたもの。
- ・読書・瞑想・筋トレ・勉強などは、それ自体を目的化しないこと。楽しいからただやっているが原理原則の世界。
- ・「これをやっているから大丈夫」ではなく、現実で使えているかを見る。使えているなら、原理原則に従った世界にいると言える。
- ・知識ばかり増えて現実に適用しないと、頭でっかちな批評家になる。適用というのは、できている気がするじゃなくて、実際に起きて結果になったかどうか?
- ・実力に見合わない知識を大量に入れることで、逆に実行力が落ちる場合がある。情報でぶ。
- ・「知っていること」の快楽より、「できたこと」の快楽を身体に覚えさせなければならないが、現代は知っていることがあまりにも、賞賛され過ぎた。
- ・学習は独立した箱ではなく「網目」のようにつながるというモデル。ニューロン発火をイメージしてみてほしい。本当の学習は、英語を学んでいる間に、いつの間にか身体技法のアイデアが結びつく、みたいな突拍子もない結びつきが起こるもの。
- ・ある分野の成功体験が他分野につながり、複数の体験から原則が見える。↑の通り。
- ・学習を単なる記憶として蓄えると、「知っている」という疑似達成感で行動を代替してしまう。現代の試験社会ではそれが起こりやすいシステムになっているが、現実に何を起こしたか?という箱から出て何をしたかの方が重要である。
- ・複数分野で成功する人は、個別の暗記より「体験同士のつながり」を利用している
ニューロン発火する地点を見つけるのが上手い人ってこと。





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