シンクロニシティについて考えていくと、「原因があって、その後に結果が生まれる」という私たちの常識そのものを疑う必要が出てくる。
私たちは、生まれたときから「原因→過程→結果」という順番で物事が起こると思い込んでいる。しかし、本当は逆で、先に「結果」が存在し、そこへ向かうための過程が後から発生しているのではないか。
たとえば、古い友人のことを話していたら、数年ぶりにその人と再会する。忘れ物を取りに戻ったら、そこで偶然、会いたかった人に出会う。サッカーチームが勝ったなら、勝つという結果が先にあり、そこへ至るまでの試合展開が後から積み重なったと考えることもできる。
この見方では、私たちが「偶然」と呼んでいる出来事も、実は結果へ向かって敷かれたレールの一部になる。
忘れ物をする。道を間違える。予定が変わる。誰かから突然連絡が来る。一つ一つは偶然に見えるが、結果が先に存在しているのなら、それらはその結果に辿り着くために後から組み込まれた「経緯」なのかもしれない。
では、その「先にある結果」は何によって作られるのか。
ここで重要になるのが、脳内のイメージ、つまり妄想や空想である。
私たちは頭の中で、現実にはまだ存在していないものを自由に作ることができる。時間や空間さえ自在に組み替え、存在しない世界を一瞬で作り出すことができる。
紙にキャラクターを描けば、そのキャラクターは紙の上に存在する。そして、そのキャラクターを描いた後から性格や設定を考えることもできる。つまり、「キャラクターを作る」という結果が先にあり、その後から設定という経緯を与えることができる。
この構造を現実世界に当てはめると、脳内で作られたイメージが先にあり、それに合わせるように現実の出来事が後から組み上がっていく、という考え方になる。
実際、この世にあるものの多くは、最初から物質として存在していたわけではない。パソコンも飛行機も、スポーツもファッションも、最初は誰かの頭の中にしか存在しなかった。それがイメージされ、そこから現実の形になった。
しかも、何かを実現した人の話を聞くと、「無謀なアイデアだったのに、なぜか資金が集まり、協力者が現れ、気がついたら完成していた」ということがある。
結果から振り返れば、そこへ至るまでの出来事はすべて「必要だった経緯」に見える。
ただし、ここで重要なのは、単純に頭の中で具体的な願望を描けばいいわけではないということだ。
実際の体験を振り返ると、「こうなってほしい」と強く願ったことよりも、準備もしていなかったのに、ふと心に浮かんだことや、一瞬だけ強く感じたことのほうが現実と重なっている。
たまたま目に入った写真を見て「いいなあ」と思った数時間後、その状況が自分の現実として現れた。ずっと気になっていた異性とのやり取りを日頃から妄想していると、思いがけない場所で偶然その人に出会う。
ところが、「その人とどこかへ行きたい」と具体的な出来事を強く想像すると、かえって何も起こらない。
ここから、重要なのは頭の中に描く「絵」そのものではなく、そのとき心に刻まれた「感覚」なのではないか、という考察が出てくる。
「一億円を手にしている自分」を想像するだけでは現実化しない。しかし、一億円を手にしたときの感覚を心に強く刻むことなら、何かが違うのではないか。
逆に、望んでもいない出来事が起こってしまう場合もある。
本人がそんな出来事を望んでいたわけではない。それでも、その前に見たものや感じた恐怖、不安といった感情が強く心に刻まれ、それに対応するような出来事が現実に起こっている。
だから、シンクロニシティを意図的に起こすうえで重要なのは、「何を考えたか」だけではなく、「何を感じ、それがどのように心に刻まれたか」なのではないか。
そして、この考え方を突き詰めていくと、そもそも私たちが「現実」と呼んでいるものが、世界のすべてではないという話につながっていく。
たとえば、人間には聞こえない音を犬は聞くことができる。人間には見えないものも、別の生物には見えているかもしれない。
つまり、「自分には認識できない」ということと、「そこに存在しない」ということは同じではない。
私たちは三次元の肉体を通して世界を認識している。そのため、見ることのできるもの、聞くことのできるもの、感じることのできるものには限界がある。
目の前に存在しているのに、認識できないものがある。
そう考えるなら、私たちが「原因」と「結果」として認識しているものも、本当にその順番で存在しているとは限らない。
人間には見えていないところで、すでに結果が成立している。そして、その結果に向かって、現実の中に一つずつ過程が現れてくる。
シンクロニシティとは、単なる偶然の一致なのではなく、私たちが認識できる範囲の外側にあるものが、現実の出来事として部分的に姿を現したものなのかもしれない。
少なくとも、「原因が先、結果が後」という世界観だけが絶対だと考える必要はない。
私たちが「結果へ向かう過程」だと思っているものが、実はすでに存在している結果によって、後から形作られている可能性もあるのである。






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