まず、一般的に運と呼ばれる物は、
理解できないところで起きた出来事を、
とりあえず起きた事Aとして、
処理するためのパッケージ言葉です。
相手が何を見て、何を予測し、
どこに手を打っていたのかが分からなければ、
その結果はすべて偶然に見えるものです。
たとえば、なぜか仕事が次々と舞い込んでくる人がいるとしましょう。人脈の鬼、みたいな人をイメージしてみてください。
ちょうど困っていたときに有力者から声がかかり、偶然参加した食事会で重要人物と出会い、何気なく発信した内容が誰かの目に留まって、いつの間にか、やりたいことができてしまっている。
はたから見れば、人生の節目節目ごとに
都合よく成功の扉が開いているように見えます。
しかし実際、その人は何年も前から、
自分が何者で、
何ができるのかを周囲へ伝えている。
(というか、世界に対して表明している)
小さな依頼にも応え、紹介してくれた人の顔を潰さず、
何も返ってこない時期にも仕事を積み上げていた。
その数え切れないほどの平凡な接点によって、
「何かあったときに思い出される位置」を取ってます。
声がかかった瞬間だけを見れば偶然ですが、
その人へ声がかかりやすいように、
人間関係と信用の流れはすでに整えられている訳です。
人との間における、
風水がめちゃくちゃ働いているわけです。
有力者とたまたま出会ったのではなくて、
有力者まで数人で接続できる場所に、
長い時間をかけて脈を作り続けていたわけ。
運が良いように見えるのは、
偶然に愛されているからなのか?偶優性の賜物なのか?
人の見えていない場所で、
偶然が起きたときに
それを拾えるだけの準備をしているからだ。
その分野の概念を持っていない人間には、熟練者が何をしているのか認識できない。認識できないまま結果だけを見れば、残る説明は「運が良かった」しかない。





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