ありのままは、何が先?

多くの人が言う「ありのまま」

それは
「今の自分の感情や
 欲求をそのまま肯定すること」
「無理に自分を変えようとしないこと」
を指している。

一見すると、力みを手放した自然な状態に見えますよね。

けれど、その中心には依然として
「自分が先」という前提が残っている。

自分がどう感じるか?
自分が何をしたいか?
自分がどうありたいか?

結局ずっと、
自分を起点に世界を見ている。

自分の感情の絶対視。
自分を好き勝手に解放。

そうなると予定調和からは外れます。

「気づいたらそうなっていた」
という力みではなくて、
ただの腑抜けになってしまう。

だから、この解釈のまま
「ありのまま」でいようとすると、

力を抜こうとしているのに、
むしろ「自分をどう扱うか?」
という自己操作が増えていく。

すると、自由でありそうなのに、
なぜか縛られている自分が見えてきます。

結果として、
力みを手放すために力む、
という空回りにはまりやすいんです。
脱力しようと思ってしてるみたいな。

じゃあ、
本当の「ありのまま」とは何か?

その場、その流れ、その瞬間にすでに存在しているものを先に受け取り、その中で自分の位置や動きが自然に決まっていく。自分を押し通す必要もなくて、自分を消す必要もない。

ただ、世界を自分に合わせるのではなく、
自分の輪郭が世界との関係の中で立ち上がる。
それは空間を先に立てているということ。

空間と聞くと、訳がわからないかもしれません。

世阿弥は『花鏡』の中で、以下のように定義しています。
自分の目から自分を見ることを「我見」
観客の側から自分を見ることを「離見の見」

そして「目前心後」
目は前に置きながら、
心は後ろに置けと言った。

これは単なる「客観視」
だとかメタ認知とはまた話が違います。

舞台の上で「私はどう見えているだろう」
と自分ばかり気にしているうちは、
まだ我見の中にいるわけです。

そうではなく、一度自分の外へ出て、
舞台全体を見る。

その空間の中に、観客も、自分も、動きも、間も、全部まとめて存在していますよね??その全部まとめて存在しているものが空間ということであり、、

続きはまたどこかで。。

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