この構造は、カントの『純粋理性批判』における「感性」と「悟性」の関係に重ねると、もう少し深く理解できる。カントにおける感性とは、外界から与えられるものを受け取る能力である。対して悟性とは、与えられた感覚を概念や因果関係のもとで整理し、一つの対象として理解する能力を指す。解釈能力とも言える。
悟性と理性の違いも少し分かりづらいが、理性は、1+1=2といった、共通理解が可能なのが特徴。 悟性は、美とか正とかいったもので、人が皆感じ取れるもの、なのだけれど、人それぞれ解釈がことなるもの。と考えてみて欲しい。
感性が受け取るだけでは、そこにあるのは色、音、硬さ、温度といった断片にすぎません。人に元々備わっている”悟性”がそれらを結びつけることで、初めて「人が歩いている」「物が落下した」「危険が迫っている」という経験が成立する。
カントの有名な言葉に、
「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」
というものがある。
予測処理の言葉に置き換えれば、感覚入力を伴わない内部モデルは空虚であり、内部モデルによって整理されない感覚入力は盲目である、ということになる。ここまでは、感性と悟性のどちらも必要だという話。
しかし、予測処理はそこからさらに一歩進み、両者が食い違った時に「どちらの言い分を採用するのか」という問題を扱う。悟性に相当する内部モデルは、「これは人である」と予測している。ところが、感性に相当する視覚入力からは、その予測に反する情報が入ってくる。
この時、脳が内部モデルを修正するとは限らない。感覚入力の精度が低いと判断されれば、反証はノイズとして処理され、「やはり人である」という予測が維持される。反対に、感覚入力の精度が高いと判断されれば、予測誤差が強く上位へ送られ、「人ではなく、電柱の影だった」と内部モデルが修正される。
アセチルコリンが関わっているのは、まさにこの局面である。アセチルコリンは、感性でも悟性でもない。感性から届けられた情報に、どれだけの発言権を与えるかを調整している。言い換えれば、悟性が作った理解に対して、感性が異議を申し立てる際の「声量」を決めている。
コリン作動性の調節によって感覚的な予測誤差の精度が高く設定されれば、現在の内部モデルでは説明できない小さな違いが強く意識される。それまでの理解を維持するより、目の前で起きていることに合わせて理解を更新する方向へ、脳の推論が傾く。反対に、感覚的な予測誤差の精度が低く設定されれば、脳は外から入ってきた違和感より、すでに持っている内部モデルを優先する。現実が多少食い違っていても、「おそらく、いつものことだろう」と処理し、予測を維持する。
したがって、アセチルコリンは単に感覚を鋭くする物質ではない。悟性が作り上げた世界像を、感性から届く情報によって、どこまで修正可能な状態にしておくかを調整する物質である。カントは、悟性が感性から切り離されれば、思考は内容を失って空虚になると考えた。
自由エネルギー原理においても、内部モデルが感覚的な予測誤差を無視し続ければ、そのモデルは外界による修正を受けなくなる。内部では整合していても、現実との対応関係を失っていく。
ここで重要なのは、感覚入力が常に正しいわけでもないという点である。暗闇、雑音、疲労、情報不足の中では、感覚の方が不確かである。そこで感覚に高すぎる精度を与えれば、内部モデルは些細な変化のたびに書き換えられ、安定した認識を維持できない。だから脳には、悟性を感性に従わせるだけでなく、どの感覚なら信用できるのかを推定する必要がある。
アセチルコリンが調整しているのは、真偽そのものではないわけで、「この感覚には、現在の理解を書き換えるだけの証拠能力がある」という、感覚側の確信度と言える。
この観点から見ると、注意とは、感覚に対する一時的な信任に近い。注意を向けた対象について、脳は「ここから届く予測誤差は重要である」と判断し、その信号の精度を高める。普段なら無視される小さな差異が、内部モデルを修正するに足る情報として扱われるようになる。
そして、この話は「確信」にも繋がってくる。確信とは、自分の内部モデルを強く握りしめることではない。外界からの異議申し立てを受け付けたうえで、それでもなお維持された予測に、高い精度が与えられている状態である。
感覚からの反証を最初から遮断して作られた確信は、単なる思い込みと区別がつかない。正しい確信には、自分の予測を現実へ開き、必要なら修正できる回路が残されていなければならない。カントが示したのは、悟性だけでも、感性だけでも、世界についての認識は成立しないということだった。
自由エネルギー原理は、その二つが常に同じ比率で働くのではなく、精度によって力関係を変えていることを示す。そしてアセチルコリンは、その力関係を神経生理学的に調整する候補である。
悟性が世界の見方を作るのだとすれば、アセチルコリンは、その世界に現実がどれだけ大きな声で返事をできるかを決めている。
では、「現実を見る」「ありのままを見る」とは、どういう状態なのか?も考えてみる。
カントの立場から言えば、人間は悟性を介さずに世界を見ることはできない。私たちは、目の前にあるものをただ受け取っているのではなく、それが何であり、何を意味し、次に何が起こるのかを、常に予測しながら見ている(因果を見ている)。
したがって、ありのまま見るとは、解釈を完全になくすことではない。
それは不可能である。ありのまま見るとは、悟性によって作られた解釈を現実そのものだと思い込まず、感性から届く情報によって、いつでも修正できる状態にしておくことである。
人は、見たいものだけを見ているのではない。正確には、自分の期待、恐怖、欲望、記憶によって精度を与えられたものを、現実として採用している。
同じ出来事であっても、恐怖に高い精度が与えられていれば脅威に見え、欲望に高い精度が与えられていれば好機に見える。悟性は感覚を整理しているだけではなく、自分がすでに持っているモデルに沿って、何を重要な情報として扱うかまで決めている。
ここにアセチルコリンが関わる。
アセチルコリンが感覚的な予測誤差の精度を調整しているなら、それは悟性が作った世界に対して、目の前の現実がどれだけ強く異議を申し立てられるかを調整していることになる・
ありのまま見るとは、自分の予測を弱くすることではなくて、自分の予測に反する情報を、雑音として消さないこと。
悟性は必要であり、悟性がなければ、感覚は意味を持たない。しかし、悟性が強くなりすぎれば、人は現実ではなく、自分の内部モデルを見るようになる。したがって、ありのままとは、主観が消えた状態ではない。→主観が現実からの訂正を受け入れられる状態。
悟性が世界の見方を作り、アセチルコリンが、
その世界に現実からの修正をどこまで許すかを調整する。
現実を見るとは、何の解釈も持たないことではなくて、現実に最終決定権を残しておくことである。常に現実が正解を回し続けるのが難しい理由もココにあるわけです、






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