アセチルコリン

脳の自由エネルギー原理を調べていくと、運動、認知、感情、さらには意識まで、脳の働きを「予測」という一本の原理から説明できる可能性が見えてくる。そんな話をしていきます。ここでいう予測とは、単に未来を言い当てることではありません。

まず、前提として脳は、外界や身体から届いた感覚情報をそのまま認識しているのではなく、「いま、この感覚を生じさせている原因は何か」を絶えず推測している。上位の脳領域からは予測が送られ、下位からは現実とのズレである予測誤差が返ってくる。脳はその誤差を小さくするように、認識を修正したり、身体を動かしたりする。

知覚の場合は、予測を現実に合わせる。
運動の場合は、現実の方を予測に合わせる。

たとえば、「腕が上がっている」という固有感覚上の予測を脳がつくると、その予測と現在の身体状態との差を埋めるように運動系が働き、実際に腕が上がる。自由エネルギー原理では、運動は脳が筋肉へ命令を送るだけの過程ではなく、身体に関する予測を現実化する過程として捉えられる。Fristonの統一理論

ただし、脳が処理しているのは予測誤差の大きさだけではない。

同時に、「この誤差をどれだけ信じるべきか」も推定している。

暗闇で何かが動いて見えたとしても、視覚情報そのものが不鮮明なら、脳はその誤差を強く採用しない。反対に、明るい場所ではっきり人影が見えたなら、脳は内部モデルの方を修正する。この、情報の信頼度に相当するものが「精度」である。数学的には不確実性や分散の逆数に近く、精度が高い信号ほど、脳内の推論に強く反映される。

つまり、脳内では常に、

「自分の予測を信じるのか」

「外から入ってきた感覚を信じるのか」

という信頼性の配分が行われている。

この配分を神経生理学的に調整している候補の一つが、アセチルコリンである。

アセチルコリンは、感覚皮質に入ってくるボトムアップ信号の利得を変え、予測誤差をどれだけ強く上位へ通すかを調整するものと考えられている。アセチルコリンが働けば、単純に感覚が鋭くなるというより、「いま入ってきた感覚情報には、内部の思い込みを書き換えるだけの価値がある」という重みが与えられる。

実際、人間を対象とした薬理学的・脳波研究では、コリン作動性作用を高めることで、聴覚入力の感覚精度とボトムアップ伝達が高まるというモデルが支持されている。Moranらの研究 また、聴覚皮質における近年の研究でも、アセチルコリンが予測誤差の精度を調節することが示されている。Pérez-Gonzálezらの研究

この意味では、注意も「何かを見る機能」というより、
どの予測誤差に高い精度を与えるかという操作として説明できる。

注意を向けた対象は、その対象から入ってくる誤差の利得が上がる。その結果、小さな変化でも上位のモデルを修正できるようになる。反対に、精度を低く見積もられた信号は、存在していても推論にほとんど影響しない。Feldman & Friston

感情も、同じ構造で考えられる。感情に関わる入力は、視覚や聴覚ではなく、心拍、呼吸、胃腸、筋緊張、体温などの内受容感覚である。脳は身体の状態を受動的に読み取ってから感情を生み出すのではない。これから必要になる身体状態を予測し、自律神経や内分泌系を先回りして調整しながら、その感覚の原因を推論している。

心拍の上昇という同じ身体信号でも、「危険が迫っている」というモデルの中では恐怖になり、「重要な挑戦が始まる」というモデルの中では興奮になる。感情とは、身体反応に後から貼られた名前というより、身体内部の感覚を説明し、次の身体状態を制御するための予測モデルだと考えられる。Sethらの内受容推論モデルBarrettらの構成主義的感情モデル

認知も同様。人が考えている時、脳は目の前の感覚だけでなく、複数の未来、行動の結果、他者の反応、自分の身体状態まで予測している。その中から、将来の予測誤差が小さくなり、自分が維持すべき状態に近づける行動方針を選ぶ。

したがって、知覚、思考、感情、運動は別々の機能ではない。

知覚は、外界の原因を予測すること。
感情は、身体内部の原因と変化を予測すること。
認知は、複数のモデルと未来を比較すること。
行動は、選ばれた予測を現実化すること。

すべてが「何が起きているのかを推定し、どの情報を信じ、どの予測を実現するか」という一連の推論として繋がっている。

意識についても、予測処理の枠組みから説明する試みがある。

無数の局所的な予測のうち、精度が高く、より上位の階層まで採用され、記憶や判断、行動計画へ広く利用できるようになった内容が、意識に上るのではないかという考えである。予測処理とグローバル・ワークスペース理論を統合したモデルも提案されているが、ここは運動や知覚ほど確立された説明ではない。Predictive Global Neuronal Workspace

重要なのは、脳が単に予測誤差を消しているのではなく、予測と感覚のどちらを信じるかまで予測している点である。

そして、ここには「確信」の正体を考える手掛かりもある。

確信とは、単に強く思い込むことではない。ある予測や行動方針に対して、脳が高い精度を割り当てた状態である。反対に、複数のモデルが競合し、どの情報に精度を与えるべきか決まっていなければ、判断も行動も弱くなる。

ただし、確信の強さをアセチルコリンだけで説明することはできない。アセチルコリンは主として感覚的な証拠の精度に関係し、行動方針そのものへの確信、すなわち「この行動を選ぶべきだ」という方策の精度には、ドーパミン系など別の神経調節系が関わると考えられている。

つまり脳内では、

「外から来た情報を、どこまで信じるか」

「自分の内部モデルを、どこまで維持するか」

「選んだ行動を、どれだけ強く実行するか」

という複数の確信が調整されている。

脳は世界を正確に写し取る装置ではない。

予測をつくり、誤差を受け取り、その誤差の信頼性まで計算しながら、自分と世界の関係を更新し続ける装置なのである。

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