本来なら、教えは「形」にするべきではないのかもしれない、という話。

教えと言われるもの。そのものは、誰かに教えてもらって覚えるものというよりも、自分自身で知るものであり、教えというのは、その真理を直接渡すものではなく、「そこへ行くにはどうすればいいのか」を示すためのものだったように思います。

だから、本来は教えを読んで終わりなはずがなく、
教えを手がかりにして、自分自身で真理に触れる必要がある。

ところが、それを言葉にして、書物にして、形として残し、いつの間にか「何が書いてあるか」が重要になって、「自分で何を知ったか」が後ろに追いやられていく。

そして、真理へ向かうための道だったはずの教えが、いつしか「これが真理だ」と言い始める。

ところが、それを言葉にして、書物にして、物質世界の中に「形」として置いた瞬間、教えはその世界の制約を受けることになる。

言葉には限界があるし、書かれたものには解釈の枠ができる。そうして本来は自由に真理を指し示していたはずの教えが、少しずつ固定されていく。

そして、ここで意味が反転する。

真理へ向かうための道だったはずの教えが、いつしか「これが真理そのものだ」と扱われるようになる。

本来、教えは真理より下にあるはずなのに、いつの間にか教えのほうが真理を規定してしまう。

真理を伝えるために生まれた教えが、形になったことで物質世界に囚われ、最後には真理そのものを縛ってしまう。

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