何かを得れば、何かが動く。
ジョギングをすれば身体は疲れるし、靴底は減る。息をすれば二酸化炭素が出る。自分の側から見れば「健康のために走った」という一つの出来事でも、その裏側ではずっと何かが失われ、何かが渡されている。
お金も同様に、自分の口座に入ってきたお金は、どこかから出てきたもの。自分が得をしたとき、別の場所では何かが動いている(ただし、それが損とは限らない)。逆に、自分が損をしたとしても、そのお金が世界から消えたわけではなく、誰かのところへ移っただけだ。
お金という存在で見た時、地点A→地点Bに移っているだけになる。
「失う」という言葉について考え直してみたい。
自分から見れば、失った。
世界から見れば、移動した。
世界全体の水位は変わっていない。
それでも人間は、自分を世界から切り離して考える。「自分のものが減った」「自分だけ損をした」と考えるから、失うことが怖くなる。けれど、自分が見ている世界そのものを自分だとしたらどうなるか。自分という存在を広げると、器が広がるというのは、きっとここにつながるはず。失ったものも、得たものも、世界の中を移動しているだけになるし、その移動という現象が循環にみえてくるので。
つまり、循環という現象を捉える時、自分の世界の広さに応じて、その人が認識できる循環は変わってくるのではないか??





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