悪魔契約について。続

京都の安井金毘羅宮,あなたは知っていますか?

そう聞くと、「縁切りで有名な神社だから、変な願い方をすると怖いらしい」という話を思い出す人もいるかもしれません。

実際、ネットにはこんな話がある。
「お金持ちになりたい」と願ったら、親が急死して保険金が入る
「仕事を辞めたい」と願ったら、会社が倒産
「痩せたい」と願ったら、病気になって入院し、結果的に痩せた。
「その人と縁を切りたい」と願ったら、相手が事故に遭った、病気になった、二度と会えない状況に。。

こういう話が怖いのは、
「願いが叶わなかった」のではなく、
文字通り叶ってしまったように見えるところ。

「お金持ちになりたい」という願いには、
「親が死んで保険金を受け取る」という方法は
普通なら含めませんよね。

しかし、願いの文章だけを見れば、それも条件を満たしてしまう。ここで、以前書いた「悪魔との契約」の話と繋がります。

悪魔との契約で怖いのは、悪魔が必ずしもこちらの幸福まで考えてくれるとは限らないことだった。契約した条件を満たせば、それで契約は履行される。「宇宙に全部お任せ」という考え方も、実は構造としては少し似ている。「方法は宇宙に任せます」と言った瞬間、自分は「どうやって叶うか」という部分を手放している。

ただし、宇宙を「自分自身」と考えるなら、ここには大きな違いもある。

自分の幸福や喜びそのものが、願いを生み出しているからだ。だから本当に「全部お任せ」でいいのか、という問題が出てくる。「お金持ちになりたい」ではなく、「誰かが死ぬことによってではなく、自分の仕事や事業によってお金を得たい」。「仕事を辞めたい」ではなく、「生活が破綻することなく、もっと自分に合った仕事へ移りたい」。「痩せたい」ではなく、「病気になることなく、健康な身体のまま痩せたい」。

こうしてみると、願いを具体的にすることは、神仏に細かく指示を出すことというより、自分が何をリスクとして引き受け、何を引き受けないのかを明確にする作業なのでは?

安井金毘羅宮が怖い、という話も、
単純に「強力な神様だから怖い」と考える必要はなくて。むしろ、「縁を切る」という言葉の中に、自分がどこまでの変化を望んでいるのかを考えずに入ってしまうことのほうが怖いということ。

「この人との縁は切りたい。でも、その人が不幸になってほしいわけではない」
「この仕事との縁は切りたい。でも、収入まで失いたいわけではない」
「今の生活を変えたい。でも、健康や安全まで失いたいわけではない」。
ここまで自分の中で分けておくというか、境界線が引かれているかどうか?なのです。

どこまでなら背負えるのか。そして、どこから先は絶対に引き受けないのか。そこまで含めて願いなのですが、そこで感情に飲み込まれている時、境界線がなく、望まない形のナニカが叶う可能性は高くなります。

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