ユダヤの思想を色々汲み取っていくと、
↓のような面白い思想に突き当たります。
「神は全知全能なので教義の抜け穴も当然知っており、その抜け穴を利用する事は、教典を読み込んだ努力に対する、神からの報酬である」という点。
実際にユダヤ教の法典には残されている話になりますが、古代ユダヤには、収穫した農作物の一部をエルサレムへ持っていき、そこで食べる「第二の十分の一税」という制度がありました。というのは、遠方に住んでいて、作物をそのまま運ぶのが難しい場合は、いったん金銭に換え、その金をエルサレムへ持っていってもよいとするもの。ただし、自分の作物を自分で金銭に換える場合、その価値に五分の一を上乗せする必要があった。100の価値を持つ作物なら、125を支払わなければならない。
ところが、他人が換金する場合、この上乗せは必要ありません。
ここで、驚くほど堂々と抜け道を教えてくれているんですね。
成人した息子や娘に金を渡し、「この金で、あの作物をあなたのものとして換金しなさい」と頼めばよいのです。つまり、自分ではなく、他人に換金してもらえれば、現代で言うところの税金負担が起きなくなるのです。成人した子どもは、法律上、親とは別の人間である。したがって、これは「所有者本人による換金」にはならず、五分の一を追加しなくて済む。
この話で言われているのは、
後世の人間が勝手に見つけた裏技ではなく、教典そのものが、「第二の十分の一税については、巧妙に立ち回ってよい」と書いているのです。良い変えるなら、神の目を盗んでいるわけではなく、神が想定している範疇ということ。誰が独立した所有者なのか。何をもって「本人が換金した」と判定するのか。律法を細部まで読み込み、その境界を理解した者だけが、余計な負担を回避できるようになる。
この話を通じてなにを伝えたいのかといえば
抜け穴がある前提で世界をみる訓練をしないと、「ルールだから」「正義だから」という言葉に縋ります。規則の中身を理解する代わりに、規則へ従うことで自分の正しさを確保しようとする。富める者は、この裏道、抜け穴の熟知の力がとてつもないという話。





コメントを残す