忘れる技術=抽象化力

こんにちは。えむです。

たくさんの情報を知っている状態って
確かに凄い感が出ますよね。

でもそれ以上に大事なのって、
忘れる技術なんじゃねえか?
という話をしたいと思います。


速読術、記憶術、ワーキングメモリ強化など、
いろんな脳活性化プログラムに足を突っ込んできたえむですが、
かつては、たくさんの情報を捌いて、たくさんの知識を持っていることこそ正義だと思っていた時期がありました。

だから記憶術研究にもかなり固執していました。
頭の中に数千の記憶項目があり、何も見なくてもかなりの量を暗唱できる、みたいなこともやっていました。でも今になって思うのは、覚える力そのものより、忘れる力の方がずっと重要なんじゃないかということです。

最近の研究では、忘却は単なる失敗ではなく、脳が積極的に行う整理の働きだと示されています。フリンダース大学の線虫研究では、ドーパミンが不要な記憶を消していく過程に関わっていて、ドーパミンが欠けると、むしろ記憶が長く残りやすくなった。つまり忘れるというのは、頭が悪いから起きることではなく、脳が能動的に選別していると言えます。 

だとすると、こう考えられるかもしれません。

人が何かを本当に理解した時、起きているのは単なる記憶の追加じゃない。バラバラだった事例のあいだにある共通構造が抜けて、ひとつの型としてまとまる。つまり抽象化が起きる。

抽象化とは、
情報を増やすことではなく、
大量の具体の中から
何度でも使える骨格だけを取り出すことです。

そしてもしドーパミンが、
学習の更新と忘却の両方に関わっているなら、

抽象化が進んだときに起きているのは、
「覚えたから増える」ではなくて、、、
「理解によって細部をそのまま保持しなくてよくなる」
ということなのかもしれません。


それ即ち、
理(ことわり)の解体じゃないですか?


つまり、記憶が完了したから消される過程が教えてくれるのは、忘却は劣化じゃなくて、理解の副産物ではないかという視点です。

本もたくさん読んでいる人が凄いと思われがちですが、
それ以上に、大事なものを抽出して、
それ以外を削ぐ技術の方が、もっと核心だなと思うわけです。

たくさんのものを見て、考えて、試して、
その中で何度も残るもの。
削ってもなお残るもの。
それこそが本当に重要な情報なんじゃないかと思いますし

逆に、心にも残らず、
頑張って保持しないと消えてしまうものを、
延々と抱え続ける必要があるのか??

学校の勉強なんてほとんどこれですけれど、
それが当たり前になると、重要なところから離れる気がしますね。


もちろん、意図的に覚えるべきことはある。
でも最終的に強さになるのは、

情報量の多さではなく、身体に残ったもの、そして自動で再利用できる型、何度も現実に接続できる骨格を持てることだと思います。

覚えることより、忘れること。
蓄えることより、抽出すること。
理解とは、増やすことではなく、
削りながら型にしていくことなのかも。

そして、それを高速で繰り返すサイクルを繰り返し、サイクルすらも改良に改良を重ねていく。それが生きるってことでもあるんじゃないかとも思うのです。

5/365記事目でした。また明日!

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