こんにちは。
今回は創造って何か?
という話をしていきます。
世間では、お金をてにする目的として、
自由になりたい!
FIRE!FIRE!
チャッカマン!
そんな夢を語る人も少なくありませんし、むしろ多数なのかもしれませんが、もしそのような自由を手に入れた時、人は創造性を失うんじゃないか?を話していきたい。
自由すぎてヒャッハーになっ時、人は何を失うか?考えたことありますか?
ブドウがワインになる過程をイメージしてみてください。葡萄は、何倍もの重さで押し潰され、皮が裂け、果汁が滲み出て、発酵という時間を通ってはじめて、ただの果実ではないものへ変わっていきます。ごま油も似ていますね。
余剰によって豊かさが生まれますが、
逆に、
不足があるから激情が生まれていくもので。
その激情は、
豊かさで買えるものじゃないです。
安心は金で買えるかもしれませんが、
激情はまた話が違ってくる。
特に表現の世界においてはそう。
たとえば、かの有名な小説家ドストエフスキーは、金をギャンブルと女に全てを突っ込む超絶クズ野郎で、借金の返済に追われ続けた人生でしたが、その中での起死回生の一手として出版した本が当時大バズり、「カラマーゾフの兄弟」って言うんですけどね。
聖人君子みたいな人だったら、彼のような、人間の奥深くにある薄汚い醜い部分を描けないでしょう。どんな教育を受けたら書けるのか?なんて考えても無駄なのです。
他にも、ロシアの文豪を掘っていくと、ギャンブル狂い、女好きみたいな人間がひょっこりと、地獄の釜から顔を出してきます。
なので、豊かな状態から生まれる創作と、
強烈な不足から生まれる創作の性質は全く違います。
そもそも、創造という行為は自分自身に限界まで負荷を与えないと生まれないものなのであります。限られた時間に、一定ライン(常人が超えられない)をこえないといけないという制約を受けて、初めて、人の心を動かす物が作れる。というのは、何とも皮肉なことですが、やはり、無限の時間、無限の金、無限の自由があっても人は持て余してしまうものです。
その豊かさでは生まれないものは確かにある。
だからと言って、
苦しみを享受しましょうとは言いませんが。
何某かの締め切りに追われる創作状態を、
激情を抱えたまま動き続けられるくらい
創作に変換して表現できる領域が見つかった時、
人の魂は輝くんじゃないでしょうか。
これを考えると、
苦しみって案外悪くないんじゃないか?
とも思います。
苦しみを受け入れろという話でもなく、
苦しみをいかにして昇華させるか?に近いですね。
人は受け止めすぎて、出す先が見つからない時パニックになるものです。
便秘もそう。いんぷっと過多の、情報商材ジプシーもそう。
出力先がないから苦しみに不安がくっついてしまって、苦しみをそのまま見ることができなくなる。苦しみ単体が嫌だと感じるのは、出す先がまだ定まってないからなのかもしれない。そんな視点を持って、ぜひ日常を過ごされてみてください。
この記事は、また追記すると思いますが、一旦はここまでで。
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